小説 [1]



密談

一、
 大久保は大きく息を吸い込んだ。そして丹田に力を込めて、ゆっくりとしかし鋭く吐き始めた。空ろのように見えていた眼に、炎のような光が戻ってきた。
 大久保は今、西郷に呼ばれている。用件は恐らくはあのことであろう。漠とした、しかしながら打ち消すことのできない予感が大久保を抱きすくめていた。いよいよ正念場であった。自分が、そして北山の人が、いや当の西郷自身すら、歴史の表舞台に生き残ることができるかどうかの瀬戸際である。その成否は今から自分が西郷を説得できるかどうかにかかっていた。
‥‥もし説得できなかったら‥‥
 大久保は腰に差した小刀の重みを意識した。その時はこの小刀が二人の男の血を吸うことになるだろう。
 大久保は立ち上がり、もう一度大きく深呼吸をした。そして静かに自室を出た。
‥‥しかし吉之助さあはどこから計画を知ったのだろう‥‥
 大久保はそこが腑に落ちない。西郷が間諜による情報網を持っていることは知っている。しかし今度の計画は始めから薩摩の組織を使っていないのだ。

 「大久保様(さあ)、先生に御用ごわすか」
西郷の部屋へ向かう渡り廊下を渡ろうとした時、角の部屋から声がした。中村半次郎だった。
「吉之助さあが御用じゃちゅう。取り次いでくやい」
大久保はそこで立ち止まった。中村の取り次ぎなしに奥へ入れない訳ではなかったが、むしろ今の大久保には取り次ぎの時間という、少し間の猶予が欲しかった。
‥‥少なくともこの男はまだ知らぬだろう‥‥
 大久保は中村から眼を逸らしながらそう思った。知っていれば大久保が無事にいられるはずはないのだ
 薩摩藩の治安組織としての間諜網の束ねは、今この男がしている。中村は間諜などと云う緻密さと周到さを必要とする仕事には向いていない。大久保は始めそう思っていた。その中村を西郷は間諜の束ねに使っているのだ。それが故に大久保は西郷の情報収集能力を甘く見ていた。
 薩摩にはこれとは別に「草」と呼ばれる組織がある。「草」は西郷が亡き先代の殿様斉彬公から受け継ぎ直接束ねていた。大久保には当の西郷その人にも間諜や情報収集といった陰の仕事を好まない人物だという思いこみがあった。

 しかし大久保の案に相違して、西郷も中村も間諜としての資質をむしろ恐ろしい程に備えていた。今では大久保もそれを思い知らされている。
 しかし今度の一件だけは中村の筋ではあるまい。もしそうであればなにより自分が生きているはずはないと大久保は確信していた。
‥‥しかし、ならばどこから吉之助さあは知ったのか‥‥
西郷の身の回りに自分には想像のつかない組織があることが大久保には意外であった。
「おや、大久保さあ、顔色が妙ごわすなあ。どげんされもうした」
 大久保は思わず自分の顔をつるりと撫で下ろした。中村の視線が大久保の顔と腰の短刀を素早く往復している。中村の愛嬌のある表情の裏に潜む鋭い感性に肝を冷やしていた。  

‥‥‥少し前、西郷は藩邸に戻るなり大久保の所在を聞いていた。
「一蔵どんがおるなら呼んでたもっせ」 普段と変わらぬ声だった。
 自室に入ると西郷は明かり障子を左右に大きく引き開けた。雨戸はまだ閉まっていない。夜露を含んだ冷気がゆっくりと入ってくる。数の少なくなった虫の弱々しい声が、庭のどこかからチリリチリリと聞こえてくる。暑がりの西郷はこの季節にまだ汗をにじませている。書院造りの床柱を背にして座り、銘仙の黒紋付の胸を広げて扇子を使っていた。
 中村が天目茶碗をささげ持ってやってきた。中身は茶ではない。中村自身が今、井戸から汲み上げたばかりの冷たい水である。西郷が京にいる時の身の回りの世話は、細々としたことまで、全て中村がする。小者の仕事まで取り上げてしまうのだ。
「よかよか。俺(おい)は鹿児島(かごんま)じゃあ、小者どころか人並みにも扱うてもらえんじゃった。先生のお陰で、こげな夢んような暮らしをさせてもろうちょる。先生んこつは何でん俺に任せちょきゃよか」
 にこにことそう云いながら仕事を取り上げてしまう中村に、小者たちもお手上げである。それでも小者たちは好意の眼で中村を見ていた。
「中村様は薩摩犬のようだ」
  小者たちはよく目を細めながらそう囁き会っていた。
 西郷もこの頃では、それを喜んでいるらしい。中村をそばから離さなくなっていた。

 ‥‥‥一度自室に下がっていた中村が戻ってきた。
「先生、一蔵さあが参りもした」
 中村は西郷の顔を正面からは決して見ない。斜め下を向いたまま、肉の厚い広々とした肩を思っきりすぼめてぼそぼそと話す。
「おうそうじゃった。そいはいかん」
西郷は慌てて立ち上がり着物の襟を整えた。そして仙台平の袴をきちんと折りながら座り直した。西郷は中村にだけは寛いだところを見せるが、部下や年下に対しても礼を失うことはない。
 大久保が来た。中村と入れ代わりに一度広縁に座って中に声をかける。
「吉之助さあ、お呼びじゃと伺いもした」
「一蔵どん、入ってたもんせ」
 西郷の部屋の明かり障子は西郷の在室の間はいつでも開いている。それでも大久保は必ず広縁に座って入室の許しを乞う。自分が西郷にそれだけの礼をとることで、西郷の権威を高揚させようとしていた。それが延いては自らの存在も保障することになることを大久保は知っているのだ。
 大久保はすぐ後ろにうずくまったままの中村の鋭い視線を背中に感じていた。西郷が誰かを呼ぶ場合、中村がそばにおれば必ず中村が使いに立つ。今日に限って、大久保を呼びに行ったのは中村ではなかった。中村はそれが腑に落ちないらしい。
 西郷が中村を見た。大久保も振り替える。
「半次郎どん、ご苦労じゃが幸輔どんを呼んで来てたもっせ」
「あっ、いや。吉之助さあ、ちくと待ってたもんせ。少しふたりだけで話したか。幸輔どんとは明日、引き継ぎばしまっしょう」
大久保は手を上げて西郷を制した。

‥‥なるほど吉井の線か。それにしても吉井はどこから嗅ぎつけたのか‥‥  
 西郷は一瞬大久保を見た。大久保の顔面にあるものを見た。
「おお、そいでごわすか。こいはすまんじゃったあ。半次郎どん、こらえてたもんせ」
「いやいや、なんでんなかでごわす。一蔵さあのお茶ば、持って来もっそう」
「そいもよか。半次郎どん、しばらくここへは誰も来させんごとな」
「何か、一大事ごわすか。先生の御身に関わることじゃなかっでしょうな。一蔵さあ」
 「俺は明朝先に立つ。吉之助さあとは別々に国許へ向かうとじゃぁ。そん打ち合わせたい」
「あやっ、一蔵さあは船に乗られんとでごわすか」
 中村は大久保の顔に何やら尋常でないものを感じて、いつになく食い下がる。
「半次郎どん、時間がなか。遠慮せんな」
大久保は困ったものだと云うような顔をして西郷を見た。その実、自分の心の乱れを中村に読み取られていることを知っている。内心は冷汗を流していた。
「半次郎どん、すまんじゃったぁ」
中村は西郷にそう頭をさげられて、渋々と下がって行った。
「さあさ、入りなんせ」
西郷が改めて手招きした。大久保が座敷に坐り直すのを待って
「一蔵どん、今までご苦労ごわした。いよいよごわすなあ」
労いいの言葉を口にしながら、西郷の顔からは中村に見せていた笑みは消えていた。大久保は無言のまま居ずまいを改める。
 逃げることはできない。ついに西郷と対峙する時が来た。
‥‥いざとなれば差し違えればすむことだ。この人とならいつでも死ねる‥‥
大久保はむしろ喜びに似た暗い衝動を抱いていた。 (続く)

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