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わたしの出エジプト記は1996年2月から7月までの半年間、JICAからエジプトに派遣されて滞在していた時の滞在記を本にしたものです。同年、大分合同新聞に連載されていたものを中心にまとめました。全部で42話です。本をご希望の方には分価1,500円でお分けしています。
第三十二話 「ラシュワンさんご一家」 あるパ−テイ−の席でラシュワンさん一家に紹介してもらいました。それからは度々ラシュワンさんと親しくお話することができました。 わたしはラシュワンと云う柔道家をとても尊敬しています。今回エジプトへの派遣を承諾したのも、もちろんそれがわたしの仕事だからですが、実はラシュワンと云う人を生んだ国がどんなところか見てみたいということもあったのです。 彼の名前は柔道をする人たちの間だけでなく世界中に知れ渡っています。しかし彼の名前を忘れてしまった人のために少しだけ紹介しましょう。 ロサンゼルスオリンピックの柔道無差別級決勝戦で日本代表の山下選手に決勝で破れたエジプト代表選手がラシュワンさんです。 山下選手はその時右足を負傷していて、ほとんど力を入れられない状態だったといいます。しかしラシュワン選手はそのことを知りながら、その対戦相手の負傷している足を意識せず堂々と戦ったのです。 もちろんラシュワンさん自身がいっているように、右足を狙うような攻め方をされたからといって、あの時の山下選手がむざむざと破れ去るようなことはなかったと思います。 モスクワ・オリンピックに出場できなかった挫折感が山下選手を人間的に大きく成長させていて、その時の彼は柔道の世界に心技ともに不動の地位を確立していたのです。 それにもしラシュワン選手が負傷している山下選手に同情して手加減をしたのなら、負傷した足を攻めること以上に相手を侮辱し、試合を醜いものにしたことでしょう。 ラシュワン選手は正々堂々と戦って、実力通り正々堂々と山下選手に破れたのです。オリンピックが当時のソ連とアメリカの冷戦の狭間で揺れ動き、ボイコットの応酬に振り回されていた時だけに、その清々しさは正しく一服の清涼剤として見る人に感動を与えました。それ以来ラシュワンさんはわたしにとって憧れの人になったのです。 彼はさすがに年を取っていましたが、体格は昔の面影そのものでした。格技の達人とは思えないほど柔和な笑顔の優しい人に見えましたが、奥様の話ではほかのエジプト人の男性たちと同じようになかなかの亭主関白だそうです。 奥様は大阪出身の日本人です。お会いした時は三人目のお子さんの出産が間近かで、ご主人に負けないくらいの立派なお腹をしていました。そしてわたしの任期の終了間際に無事、女の子が生まれました。上の二人の息子さんたちは元気もよく、人懐こくて、わたしともすぐに友達になってくれました。 残念なことにラシュワンさんは、国外で有名なほどにはエジプト国内では優遇されていないようです。アレキサンドリアの街で兄弟と一緒に果物屋や雑貨屋を経営しています。自分でも店に出るそうです。 一年に一度は必ず日本に来ていますし、三番目のお子さんも奥さんを日本の実家に帰して生ませています。商売は安定しているのでしょう。それでもラシュワンさんのファンであるわたしからすると、何となく不満が残ります。 しかしよく考えてみるとアマチュア・スポ−ツとは本来そういうもののはずです。いくらオリンピックで良い成績を残したからと云って、それだけで社会的地位や収入を期待することは戒められるべきことでしょう。 過去の栄光にも世間の待遇にも、少しも拘泥せず、家族を大切にし淡々として自らを処していくラシュワンさんに、わたしは期待していたとおりの人柄を見た気がしました。 |
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