小説   密談ー1   密談ー2   密談ー3



密談

 六、

「西郷君もそういうことやな」
 確かに西郷も同じかも知れない。地位にも権威にも動かされることは決してない。むしろ地位や権威を否定している節さえある。
 本人たちは天衣無縫である。自分の損得など全く頓着しない。それでいていつのまにか周りの人間から祭り上げられてしまうのだ。本人たちは人の上に立ちたいとも、人気を立身出世に利用しようとも思っていない。
「困ったことにあのふたりはまた仲がええ」
 あのふたりの心の絆にひびを入れさせることは確かに不可能に見えた。大久保でさえ、西郷とあの男の心の交流には立ち入る場所を見出せないでいた。
「このまま行けば、西郷君はあの男に取り込まれてしまう。あのふたりがひとつになったら、朝廷も帝も跡形もなくなるやろ」
「また。あのふたりが対峙したとしても結果は同じことや。この国をふたつに割って、果てしない戦乱になるやもしれん」
 そうかも知れなかった。西郷にもあの男にもそれだけの爆発力が秘められているとしても不思議はない。大久保は思わず固唾を飲み込んだ。入道の云いたいことが大久保に伝わったのだ。

「大久保君は賢い人や。後は何も云わんでも分っておじゃるやろうな」
 友山入道にそう云われた時、大久保は座敷に漂う得体の知れない寒さに気が付いた。釣瓶落としの陽はとっくに落ちていたが、その寒気は外の夕冷えのせいではなかった。大久保は自分の相対している男を、このとき初めて無気味に感じていた。
 それから入道は幾人かの名前を告げた。大久保の知っている名前もある。初めて聞く名前もあった。入道の組織は意外な方面まで延びていた。「関東御番」と云う言葉も聞いた。 関東御番はつまりは薩摩でいう「草」であろう。薩摩は豊臣の滅亡した大阪落城の後、ありとあらゆる手で幕府に隠密を送り込んできた。薩摩の隠密は「草」と呼ばれていた。 先代斉彬公の頃、薩摩藩は「草」をさらに増強した。斉彬公は自ら「草」を束ね、それを西郷の手に委ねていた。斉彬公の死後、自然のなりゆきで「草」はそのまま西郷の手元に残された。
 西郷は「草」の持つ宿命的な悲劇性を哀れんでいた。彼が「草」を直接束ねているのは自らその悲劇性を分かちたかったからであった。西郷が島流しになった時、西郷がそのまま死んでしまえば「草」は「草」としての任務を終え開放される。西郷は意識の底でそれさえ密かに期待していたのかも知れなかった。 しかし岩倉の云う「関東御番」はさらに複雑であった。「関東御番」の関東とは江戸幕府を指しているのではない。陰の藩屏は源頼朝に征夷大将軍の宣下を下した時から、既に「関東御番」を設置していたという。それは武家社会そのものに張り巡らせた朝廷の監視網であり、起爆装置でもあったのだ。

 大久保が岩倉村を辞した時、月はもう西山の上にあった。洛中へ戻るには八瀬に出て高野川を出町柳まで下るか、深泥ケ池の縁を抜ける鞍馬道を通って、北山から烏丸通りに入るのが普通である。どちらも約二里半、一刻ばかりの道程になる。
 ところが大久保はいつも北へ向う。一度岩倉川を遡り、大原の手前から山を越えて鞍馬川へでた。鞍馬川からは川沿いに下る。やがて賀茂川にでるはずだ。あとは上賀茂神社裏から堀川通りに抜け、今出川通りを左に折れたら二本松藩邸へ着く。
 大久保は幕府や新選組の目をくらますために、いつもこの廻り道を使っていた。自分の身の安全のためではない。友山入道の身辺を気遣ってのことだった。月の落ちた暗い夜道も、この道を通いなれた大久保に不自由はない。しかしこの夜の大久保の足取りはいつになく重かった。

「いかん。いかん」
 何度もそうつぶやいた。吐く息が白い。自分の吐くその息でさえ、今夜の大久保には何か別の生き物のように思えた。あのツガニの甲羅のような顔が、笑いながら何度も闇に浮かんでは消えた。
 ‥‥この国の政事の裏に連綿として流れる、おどろおどろしきものを覗いてしまった‥‥大久保は生まれて初めて、得体の知れない恐怖に抱きすくめられていた。
 藩邸に着くまでに何とか平静の自分に戻らなければならない。つい半日前の自分まで、できることなら時を遡って行きたかった。
 夜が明けた。大久保はその夜、ついに二本松に現われなかった。堀川通りを藩邸とは反対側に折れて、まっすぐに下宿へ向かったのだ。藩邸では西郷が待っているはずだったが、さすがの大久保もその日だけは、西郷の前に出ていく自信がなかった。
 大久保にとって西郷の存在は何ものにも変えがたい。西郷は薩摩の宝である。薩摩の青年たちの希望の星である。そして何より大久保自身にとっての「掌中の璧」であった。
 大久保は入道の密命に従うことを決意しながら、何より西郷知られることを恐れた。すでに西郷の自分を見る眼は以前と違っている。この計画が彼と西郷との間に修復することの出来ない亀裂を生じさせることになるかもしれない事を予感していた。
 大久保にとって残念な事に西郷が「璧」であることを最初に見出したのは大久保ではない。大久保にとって故郷での西郷は、ただの敬愛する先輩でしかなかった。若衆宿の時からの少し年の離れた優しい兄貴分だった。若衆宿は薩摩の子弟教育制度である。薩摩の下級武士の幼長の序はこの若衆宿で身に付けさせられる。そして若衆宿の幼長の序は、藩政府の身分の序よりも強固であり形而上学的ですらあった。

 大久保の西郷に対する思いは、大久保がようやく木を削って作った小太刀を腰に差すようになった頃から、少しずつ大久保の心身に染み込むように形成されたものだ。西郷はその頃すでにうっすらとひげの生えた若者だった。少年にとって少し年上という存在は大きい。西郷は特に後輩たちに人気があった。大久保もその小さい後輩のひとりだった。西郷の真価に気が付かなかったとしても、むしろそれは当然だったかもしれない。
 西郷はやがてその素質を斉彬公に見出された。それまでの大久保は、西郷に一番近しいのは自分であるとの思いが強かった。それが遙か遠い存在である筈の殿様の方が、西郷の真価を正確に捉えていたと知った時、大久保は殿様に対してさえ嫉妬心を禁じえなかった。
 斉彬公は郡奉行付の書き役でしかなかった西郷を手元に引き取り、自ら教育に当たるとともに、各地の著名人に引き合わせた。秘書や密偵として活用しようとしたわけではない。初めから我を師、彼を弟子として西郷の素質に磨きをかけようとしたのだ。封建社会の中でも特に身分の上下のけじめの厳しかった薩摩では、それは希有の出来事だった。それでもごく一部の上士を除いて、西郷は誰からも妬まれることはなかった。
 殿様に磨き上げられ、西郷の人格は光を放ち初めた。斉彬公亡き後は薩摩人の求心力の中心に、西郷がかわって立つようになった。斉彬公の慧眼(けいがん)の所以である。
 大久保は西郷に対する自分の思いを気恥ずかしくも思う。西郷を信奉する青年たちは皆、西郷に一番近いのは自分だと信じているだろう。それがわかっていながら、大久保は殿様に対する嫉妬心を当の殿様が亡くなった今でも、拭い去ることが出来なかった。
 殿様が亡くなった時、大久保もすでに西郷の価値を正確に認識していた。そして自分を西郷の一番弟子、あるいは代弁者の位置に置いた。西郷が太陽なら自分は月であると、大久保は深く自負していた。西郷には常に陽の当たる場所に座らせた。自らは進んで火中の栗を拾い、汚れた仕事を引き受けた。
 西郷を「掌中の璧(たま)」とするその思いが、いつのまにか「西郷は自分の作品である」との錯覚に変わっていることに、さすがの大久保も気付いていない。

 しかしあの男を抹殺する計画は、一方では得体の知れない衝動を大久保に感じさせていた。それはむしろ体の奥深いところで感じる喜びに似ていた。その喜びの後ろに、西郷とあの男への複雑な思いが隠れていることにも、その時の大久保には気付く術を持合せていなかった。

 七、

 大久保が友山入道にその計画を指示されてひと月たった神無月の十三日、諸藩の在京留守居役が突然二条城に招集された。将軍自らが慣例を破り、直接陪臣に対して大政奉還の意図を表明したのである。翌日大政奉還の上奏文が朝廷に提出された。同日の未明には倒幕の密勅が薩長に対して降下された。その翌日には大政奉還が勅許となっっている。大久保と友山入道は、まさに綱渡りのような裏技を間一髪のところで成就させていた。
 結果として倒幕の対象である幕府はなくなっても、大久保たちの手元には挙兵を可能にするための密勅という大義名分が残された。
 明日は挙兵準備のため西郷とともに下京すると云う日、大久保はあの陰の計画も手配を終了していた。
 幕府は大政奉還の陰の功労者であるあの男を助命する旨、内示しているらしい。新選組ですら今ではあの男を襲うことは断念しているという。
 北山の人は、それを見越してのことかどうか、あの時「関東御番」の力を使うことを指示した。朝廷が、いや入道の云う藩屏という組織が、普段の諜報の目的といざという時の破壊活動のために、幕府の奥深く送り込んでいた「関東御番」は今、幕府の見廻組にさえ入り込んでいた。
 その見廻組の中の「関東御番」の名とその「関東御番」に命令を出すための方法も大久保は知らされ、その方法で既に意志の伝達は終わっている。遅くともこの年の暮れる前までには、あの男はこの世から消えるのだ。
 唯一、大久保は西郷に知られることを恐れていた。知られて諒解を取ることは不可能のように思えた。自分と西郷を決定的に引き裂くことになるかも知れなかった。
 大久保は今まで常に西郷と同化することのみを願ってきた。自分が同化することによって「西郷」は理想の人間として完成する。自分の判断は全て西郷の考えと同じであり、西郷の為である。そう信じて疑わなかった。

 しかし大久保の西郷に対するその確信は揺らぎ始めている。友山入道との交渉が大久保を少しずつ変えていた。大久保がそれをはっきりと実感していたわけではない。ただ入道と自分の間に多くの共通点を見出した時、入道の持つ異常とも云える人格と洞察力に憧憬の念さえ抱くようになっていたのだ。
 それまで西郷の影に隠れて黒子に徹してきた大久保が、この頃から次第に歴史の表舞台に登場して行く。黒子は黒子に徹してこそ、その存在意義を維持できる。そのことを周知していたはずの大久保が、あらがうことの出来ない何か強い力に少しずつ押し出されていった。自分より遙かに比重の重い黒幕に背後に沈み込まれて、大久保は奈落から表舞台へせり出されようとしていたのだ。

  八、

 ‥‥‥「こいは今までん事とは違いもす」
 あん男を失うことは俺にも断腸の思いじゃあ。友山入道はそん思いば捨てろちゅうのでごわす。俺も捨てもす。吉之助様にも捨ててもらわねばなりもはん」
 西郷の眼に微妙な変化が起きた。何か思い当たることがあるらしい。大久保は目を閉じて、西郷の言葉を待った。
「倒幕はもう成ったも同様でごわす。ここまで来れたんは、あん人のお陰ではなかか。しかもまだ、こん国の行く末そのものがまだ予断は出来もはん。そのためにもあん人は必要でごわす」
大久保は西郷の云わんとするところを察していた。しかし黙って聞きつづけた。
 「俺(おい)たちが倒幕ん事で頭がいっぱいになっちょる時に、あん人は倒した後ん体制ば心配しちょりもした。あん時ばかりは雀ん巣んごたある婆沙羅頭ん大きゅう見えたことよ」
 西郷はあの新官制図の話をしている。
「そん上、事が成った暁には官位も役職も望まんと申された。政事に奔走するは手慰みと云うたんでごわす。手慰みに褒美はもらえんと云うたとじゃあ。一蔵どんも聞いたとじゃなかか」

 そこで一度大きな溜め息をつき、西郷の声の調子が変わった。
「あん人は俺(おい)が鹿児島から連れち来た犬どもと、あっちゅう間に仲良うなってしもうた」
 大久保は目を開けた。突然に犬の話などを持ち出した西郷の真意を掴めなかった。
「犬どもはあん人を友垣んように思うちょるようじゃ。こん俺(おい)自身がけしかけたとしても、犬たちはあん人にむこうては行かん。そい処か、俺(おい)ん方が犬どもん信用を失うてしまうじゃろう。襲わるるんは俺(おい)ん方じゃ。あん人はまっこて不思議なじんでごわす」
 西郷の顔はまるで我が子の自慢話をしているように明るかった。
 西郷が鹿児島から連れてきている「薩摩犬」が、あの男に懐いていることは大久保も聞いている。西郷以外の誰にも懐かず、世話係からさえ恐れられていた犬たちがである。しかし今、西郷が犬と云っているのは、藩邸にいる彼の二頭の愛犬のことではあるまい。犬とは西郷党と云われている青年たちのことだ。その代表格が中村半次郎である。確かに中村もあの男には初対面のときから心を許していた。
‥‥まさか。薩摩ん青年(にせ)達(だち)が、いや選りに選ってあの中村までが。そげんことがあるじゃろうか‥‥
 しかし西郷がそう云う以上、それは真実でしかなかった。

 大久保にまた微かな嫉妬心が蘇った。大久保は孤独であった。自分は同郷人にまったく人望がない。西郷は別として、家老の小松帯刀以外に本当に心の通う友さえいない。西郷でさえ赤松の一件以来、どことなく大久保を見る目が冷たくなっていた。
 それなのに他藩の、地下にも等しい男が薩摩人の心を容易く掴んでしまう。しかも西郷自身がその力を自分以上と評価する。
‥‥友山入道はこん事を見ておられたか。除くべし。確かにあん男は危ない。除かなくてはなるまい‥‥
 西郷の思惑とは逆に、大久保の胸では暗い衝動が膨らんでいた。

 西郷の声音がまた変わった。
「一蔵どん、何故、俺(おい)がこんことを知ったと思うちょりもすか」
 そのことである。大久保には検討がつかなかった。やはり吉井の線か。
「一蔵どん、今井でごわす」
 西郷はためらいもせずに云った。大久保は愕然とした。自分としたことがなんと迂闊であったことか。そうだ今井がいたのだ。そうか今井も確か今は見廻組にいる。
 今井信朗は薩摩の「草」のひとりである。当然ながら「草」は定期不定期に西郷のもとに情報を届けて来ているはずだ。
 そうか、朝廷の「関東御番」がよりによって薩摩の「草」を語らったか。なんと云う巡り合わせか。
 大久保は目を閉じた。このひと月の自分の働きを自嘲気味に思い返していた。

 ふと目を開くと西郷が大久保を覗き込んでいた。大久保と眼が合うと西郷の方が微かに慌てていた。
 西郷もまた孤独であった。斉彬公が逝去されて以来、西郷は常に死に場所を求めて生きていた。一度は義に殉じるために錦江湾に身を投げた。自ら望んで二度も島流しになった。食を断ったことさえある。しかしその度に西郷は蘇り、周囲の目は人間西郷の飛躍的な成長を見た。
 その奇跡とも云える再生と成長の姿を見て、人々は西郷を彼の真意とは違うところに押し上げていった。薩摩の青年たちの間に「西郷党」ともいえる連帯感が作り上げられた。自分の心の奥底の思いとは裏腹に、彼は歴史の表舞台に立たされてしまった。
 「西郷党」はまた「西郷教」である。そしてさらに「西郷狂」にも通じていた。そのことを西郷自身が一番よく知っていた。
 その中で唯一、あの男だけが一服の安らぎを与えてくれる。あの男の体の中を吹き抜ける時空を越えた風は、西郷の体の中をも容易に吹き抜けていく。
「そん男をなぜ殺さにゃならん。俺(おい)には出来もはん。友山入道は鬼か蛇か。あん人を亡きものにするなど俺(おい)には考えもつかん。まして闇討ちにするとは」
 西郷がまた激し始めたが、大久保にはもう動揺はなかった。

「吉之助様、友山公も俺(おい)もあん男を嫌うているんではなか。じゃっどん、あん男が生きておっては、こいから先、どいだけん血が流さるるか分らんことになりもす。こいだけは吉之助様に忍んでもらわにゃなりもはん」
「何故な。大政奉還を上奏したことが罪か。そいは俺(おい)どん達(だち)も一度は認めたことでごあんど」
 西郷は水無月(みなつき)の二十二日の事をいっていた。

 九、

 ‥‥‥その日、今出川通り二本松の薩摩藩邸で薩土同盟会議が開かれていた。薩摩からは家老小松帯刀が全権大使として出席し、西郷吉之助、大久保一蔵が副使、吉井幸輔など数人が陪席している。土佐藩側は執政後藤象二郎が全権大使、ふたりの副使のほかに海援隊隊長坂本龍馬と陸援隊隊長中岡慎太郎が陪席した。
 薩摩側の本当の代表は西郷吉之助である。そのことを土佐藩の三名は熟知している。逆に薩摩側の指導者たちは土佐藩の正規軍ではないはずの海援隊と陸援隊が、実は土佐藩の軍事の要(かなめ)であることを忘れていなかった。

 同盟は倒幕戦争を想定している。既に薩摩藩と長州藩は同盟関係にあり、その密約の中には倒幕挙兵の約が含まれていた。薩土の同盟も当然倒幕挙兵の密約を含む。薩長では薩土同盟を機に挙兵の日程を定め、一挙に倒幕を実現するところまで事を運ぶつもりだった。
 ところが土佐側は大政奉還策を提示してきた。無血革命の可能性を探るため、倒幕戦開始時期の一時延期を申し出たのだ。
 土佐藩ではすでに越前の松平春嶽公に上表し、大政奉還案に対して越前公の支持を取り付けている。とはいえ京都守護職の松平容保ら幕閣の実力者が同じように受入れるとは到底思えない。春嶽公は唯一の望みを将軍本人だとし、自らが将軍に拝閲して説得することを希望していた。
 土佐藩は藩主の父、容堂公が公武合体論者である。やみくもに武力倒幕に固執すれば藩が割れかねない。大政奉還策に藩論融合の接点を見出したのだ。春嶽公の将軍説得工作の成否を五分五分とは認識しているが、後藤たちはとにかく時間が欲しかった。
 大久保はすぐさま猛烈に反論した。
「何を今更、躊躇されるか。鯨候は何かにつけて恩義恩義と申される。関ヶ原の恩義など尊皇の大義に比べれば何ほどの事やあらん」
 大久保は当然ながら土州側の代表者である後藤に向かって話している。しかし目は遙か下座にいる男の姿を捉えていた。男は座敷のすみで胡座をかいている。大久保の大声も聞こえているのかどうか、呑気な顔をして鼻毛を抜き始めた。その男こそが大政奉還という途方もない作戦を考えつき、春嶽公まで動かしている張本人であることを大久保は知っている。薩摩藩は実は早くから土佐藩の動きを掴んでいたのだ。

 薩摩藩もまだ武力倒幕で藩論統一しているわけではない。武力を行使しないで政権奪取が出来るとは誰もが信じていないだけなのだ。血を流さずに権力を奪取できるのなら誰も苦労はすまい。
 幕府は三百年に近い年月、この国の天下そのものだったのだ。まして現大樹公は幕臣たちに権現様の再来とまで云われている。その将軍が自らの手で政権を投げ出すことなど、大久保には信じられることではなかった。
 西郷はその時すでに、ここでは土佐藩の顔を立てておこうと考えていた。小松代表も内心は大政奉還の支持者のはずだ。国父久光公も大政奉還論に傾いている。だからこそ大久保は挙兵を急ぎたかった。しかし政権の無血委譲の可能性が少しでもある以上、ひと月やふた月待つことに異を唱えては薩摩は世間の信義を失いかねない。どうせ倒幕戦の準備はまだふた月かみ月は掛かる。西郷としてはここでは倒幕戦の作戦遂行上の都合もあって、まず薩摩藩の建て前上の義を適えさせることを得策としたのだ。
 大久保が鳴り止むのを待って、西郷が何やら小松に耳打ちした。土佐の提案は受け入れられ、挙兵断行の時期を師走頃まで延ばすことで妥協が成立した。薩土軍事同盟は当初の薩長の思惑とはまったく違うものになった。

 それから三日後の二十五日、今度は薩土芸の三藩間で同盟の約定が結ばれた。土佐藩が薩摩との挙兵延期の口約束に担保を取ろうとしたのだ。
 薩摩藩の兵力、兵站の準備はすでに始まっている。薩摩のその流れがそう簡単に止まるとは思えない。その上一方の雄、長州藩は武力倒幕でいつ爆発しても不思議ではない。薩長同盟がある以上、薩摩がその勢いにひきずり込まれてしまうことも有り得るのだ。
 そのため土佐藩は穏健派の安芸広島藩を加えて薩土芸三藩同盟を成立させることにした。 約定書の一項に
「将軍職ヲ以テ天下ノ万機ヲ掌握スルノ理ナシ。自分宜シク其職ヲ辞シ諸侯ノ列ニ帰順シ、政権ヲ朝廷ニ帰スベキハ勿論ナリ」
との条文が見える。
 挙兵時期を一時延期するという薩摩の口約束を、こういう形で成文化したのだ。土佐藩としては広島藩を証人にして、薩長の挙兵計画に枷をはめたつもりだった。
 しかし、土佐藩のその思惑は始めからはずれていた。倒幕挙兵論はその時すでに安芸を呑み込んでいたのだ。挙兵阻止の安全弁の筈の芸州が、逆に火の点いた導火線になっていたのである。広島藩はこの時武力倒幕に傾いていた。それは大久保の策が功を奏したものだった。

 大久保はまず長州に手を打った。薩土同盟会議の七日前、長州軍総頭取の山県狂助を西郷に引き合わせている。翌十六日には久光公にも拝閲させた。会見はどちらも儀礼的なものだったが、真の目的はその後の大久保・山県会談にあった。大久保は薩長連合に含まれている倒幕挙兵の密約を山県に再確認させた。長州に挙兵準備を急がせ、同時に山県から芸州広島藩の説得を頼んだのだ。
 穏健派の広島藩とはいえ西隣の雄藩から、強大な武力を背景に挙兵を迫られれば受けざるを得ない。倒幕派の開戦準備は、薩土芸三藩約定の成立後も広島藩の黙認によって遅延することなく続けられてきた。

 十、

 ‥‥‥大久保はまた目を閉じた。理は我にありと確信してはいても、このような時の西郷の視線を正面から見返すことは出来なかった。目を閉じていてさえ大久保は、西郷の放つ「気」に立ち向かうのに必死だった。
「一蔵どんのゆうごと、あん人がこん国の為にならんとしても、そん時はお天道様ん下で堂々と向かい合ったらよか。とてもあん人を闇から闇に葬るようなことは出来もはん」
「出来ることなら俺(おい)もそうしたか。じゃが、そんために日本中の人間を道連れにすることは出来もはん。そいどころか、もしかしたら日本の国そのものが消えてなくなるかも知れもはん。そいでもよかごわすか」
「よか。何故(ないごて)いかんか。あん人がおらんじゃったとしても、どうせそうなっちょったではなかか。幕府を引っ繰り返すだけが目的ではなか。三百年続いた屋台骨ば摺り潰して踏んづけて、跡形ものう地均(じなら)しして、そいをあとんもんに渡そうちゅうんではなかか。俺たちはそんつもりで働いて来たとでごわそうが」
「そんとおりごわす。じゃっどん、いや、そいごて、あん男には死んでもらわにゃならんのでごわす。あん男は、今死なすことが一番よかでごわす。今死ねば、あん男は不世出ん英雄でごわす。こん国の続く限り英雄として永遠に生きてゆかるる。もし、あん男がこれから生きながらえて、多くの人間を道連れにしてしもうたらどげんなりもそ。あん男も俺(おい)どん等も結局は生きて行けもはん。なんびとも何百万の人間を道連れにして死んでいいもんではなか。あん男自身がそれを嫌ろうて、奔走してきたはずじゃあ。あん男が今死ねば、あん男の望み通り、こん国の人間の何十万か何百万かの命は助かりもす」
「そいは論じゃ。俺(おい)たちの考えている倒幕戦でも、人は死ぬ」
「論ではごわへん。俺(おい)たちの戦だけなら、千か万か、一桁も二桁もちがいもす」
「おはんはそんおはんの論で、いつかは俺(おい)どんも殺す気ごわそう」
「無論でごわす。天下のために死んでもらうとなら、何の遠慮がいりもそうか」
「俺(おい)は俺の判断で死にたか。俺(おい)は何にん出来ん阿呆じゃが。自分の死に場所、死に時だけは間違わんつもりじゃ」
「俺(おい)もそうじゃあと信じちょりもす。ほかん者は知らんが、吉之助様(さあ)の判断に間違いはなか。そいどん周りんもんが間違っちょっち、吉之助様(さあ)がそいに付合うて行かにゃならんこともごわっそう」
「あん人が死なにゃならんとなら、勝先生はどげんなる。あん人ん思想を育て上げたんは勝先生ごわそうが」
ついそう口に出して西郷はすぐに後悔した。

 大久保はその西郷の心の動きを敏感に察した。そして大久保はこの時、勝利を確信した。いよいよ最後の峠である。大久保は逸る心を押えた。
「俺(おい)も友山公に、同じことば聞きもした]
入道はその時、
「大久保君もまだまだお若いなあ」
そう云って嗤ったのだ。

 十一、

・・・・勝とあの男は本質的に違う・・・・
 西郷にも、そのことは十分すぎるほどわかっていた。一見同じことを考え、云っているように見える。しかし勝の思考世界の中に「破壊」という言葉はない。常に体制の存続を前提にしている。
 しかし勝の一番弟子であるはずのあの男の内には、量り知れない破壊の力があるのだ。その爆発力は体制そのもの、国家そのものを根本から変えてしまうかも知れなかった。
 あの男にその自覚はないだろう。自らを粉微塵に破壊し、この国をも破壊し尽くすかも知れない爆発力に気付いてはいないのだ。何がきっかけでいつその爆発が起こるか、誰にも分からない。
 西郷もこの頃すでに日本という国をひとつの国として頭に描けるようになっていた。この時代、この西郷のような思考形態を持つ人間はあの男と勝を除いて、まだ生まれていない。
 大久保でさえ彼の頭の中の世界は、まだ薩摩を中心に回っている。大久保の頭の座標軸が名実ともに日本の中心に移動するのは、ずっと後になって彼が欧州列国の視察旅行に出てからのことである。さらにいえば大久保には自分独自の政治思想といえるものはなにもなかった。
 彼もまた薩摩の一青年である。全て西郷の眼を通してその場その場の状況を分析してきたのだ。西郷の洞察力と決断力に絶対の信頼を置いている。ただ大久保がほかの薩摩人と違うのは、西郷の判断した結果を聞き、その判断へ論理的な理由づけをすることを自分の役割と考えていたことだ。大久保はそれが自分に与えられた天命だと信じていた。

 大久保を含めた多くの志士たちにとって倒幕はそれ自体が目的である。だが西郷は違う。倒幕は手段に過ぎない。西郷の目的はむしろその先にあった。目的が倒幕だけにあるのならこのまま大政奉還を受入れ、諸侯の連合体による政権へ進むことも考えられる。しかしそれでは迫り来る欧米列強の大波を防ぐことは出来ない。列強に伍して行くだけの国力を養うことは出来ないのだ。
 強力な中央集権国家の樹立こそ、列強と肩を並べる為の必須の条件である。西郷にそれを教えてくれたのが、あの男の官制図だった。あの男の基本政策理念は、後に「船中八策」として有名になる。それは西郷の信奉する聖徳太子の「十七箇条の憲法」の精神に似ているとさえ云われた。事実朝廷でも同志の間でも、後々までそういう評判が高かった。
 しかし西郷はあの男の理想国家が、そんなものではないことを本能的に見抜いていた。西郷の理想とする国家と彼のそれには、一見似ていながらが実は大きな隔たりがある。あの男の考えている国家は西郷の理解の水準を超えていた。この日本の国を丸ごと、どこかわけの分からないところへ連れていってしまうような恐さがあった。
 西郷にはその恐ろしさがよく分かる。それでも西郷はあの男の説く国家論と政府組織によって目を開かされたのだ。西郷の眼力にはそういうところがある。強いて云うならあの男の「破壊力」は西郷自身が意識の底に秘めているものと同じだからかも知れない。西郷の心の奥底に秘められている意志にひとたび火が点けば、想像を絶する爆発力を生み出すだろう。そして西郷はその事を自覚している。恐れてさえいる。自分の持つ爆発力を周囲に知られることのないよう極力用心していた。
 自分が恐れる自らの爆発力をも遙かに超えた力をあの男は秘めている。そのことの危険さに西郷はようやく思い至っていた。 

 西郷にとって理想の国家とは詰まるところ老子であろう。時として大久保以上に現実主義者の西郷が、一方で「老子」的国家の建設を目指している。そこに西郷の人気のもとがあったし、同時に西郷の立場の危うさもあった。
 西郷は窮した。情においては抗すべきが、頭のどこかで宜なるべしという囁きが聞こえ始めていた。
‥‥どうせ自分もそう遠くない将来にこの国の礎を築く人柱になるつもりだ。今自分たちの手であの男を彼岸に送り、もって名を残さしめることも下策ではないのかも知れない‥‥
 西郷の体から急に力が抜けていった。
「俺はこん時代が心底嫌になった。百年前か後に生まれておったなら、あん人もこげな目に会うことはなかったじゃろう。怠け者よ呑気者よと云われながら、皆に愛されて一生を安気に送れたじゃろう」
「そいどんあん男はこん時代に生まれたからこそ、英雄の名を後世に残すことが出来もす。今ん時代でなかったら、あん男ん名は歴史に残ることはなかった筈でごわす」
「そいでよかじゃあなかか。英雄などちゅうもんは世が乱るるけん要るようになるんじゃ」
‥‥太平の世に生まれてこそ、誰もが名もなく功もなく生きていける。好きな女子と一緒になり、我が子を抱くことで満足できる。まして裕福な家に生まれて、安楽に暮らすことが出来れば、なんで死んでまで名が要るだろうか‥‥
‥‥英雄の出る時代は結局は不幸な時代なのだ‥‥
西郷はそう声に出して云いたかった。

  十二、

 ふと気がつくと明かり障子に庭の景色が小さく逆さに映っていた。雨戸の節穴から光が差し込んでいるのだ。夜が明けたようだ。大久保は立ち上がり、明かり障子を開けた。そして広縁に出て雨戸を一枚開ける。庭には一面に鋼色の薄もやが立ち込めていた。踏石が白く弱々しい光りを放っている。
「冷えると思うちょったら、霜が降りちょりもしたか。都ん季節は気が速かごわすなぁ」
 大久保のすぐ後ろで西郷がつぶやいた。大久保は振り向き西郷の眼に捉った。軽い目まいを覚えながら、大久保はそれでもしっかりと西郷の視線を受け止めた。西郷の心は静まっていた。
 その眼は大久保に向けられていたが、大久保を見ているのではないようだ。大久保の体を擦り抜けて遙か遠くを見つめている。西郷の大きな瞳の中に、東山の稜線ににじみ始めた黄金色の輝きが映った。

 その時、庭の空気が動き人の気配がした。ふたりが同時に庭の端に眼を向けた。
 足音も立てずに大男が飛び込んできた。大男は汗をかいているらしく、広い背中から湯気が上がっている。
 中村半次郎である。中村はふたりに気が付いてにっこりと笑った。
「おはようございもす」
 並びのいい真っ白い前歯がこぼれた。朝日のようにまぶしかった。大久保は思わず西郷と顔を見合わせた。
「ただいま戻りましたぁ」
 中村がまた笑顔を見せた。その笑顔の中に少し怪訝そうな表情が交じった。偶然とは知らない中村は、ふたりが自分を待っていたように立っていることに疑問を覚えたのだ。

「おはんちゅう人は。もう伏見まで行って来やったかい」
西郷が云った。穏やかな声だった。中村は頭を掻きながら照れ笑いをした。
「河原町で坂本様(さあ)にお逢いしもした」
中村がうれしそうにそう云った。
 大久保は西郷とまた顔を見合わせた。不思議な符合に驚いたのだ。その驚きはすぐに中村に通じた。中村の顔にまた怪訝そうな表情が浮かんだ。
「そいはよかごわしたぁ。まっこと半次郎どんはあん人が贔屓(ひいき)でごわすけん」
 今度は大久保が声を掛けた。西郷が笑いながらうなづく。中村は西郷の笑顔を見て、ようやく安心したらしい。また頭を掻いた。

 その時、東山から朝日が顔を出した。ふた筋の金の矢が差し込み。一筋は中村に当たった。もう一筋は立っているふたりの間を刺し抜いて、床の間の壁に掛かっている掛け軸に届いた。大久保は光を追って思わず振り返った。
  人世貴無事(人生、事なきを貴しとす)、不争名与功(名と功とを争わず)、
         鳥遷喬木後(鳥喬木にかえりてのち)、幽谷亦春風(幽谷また春風)
掛け軸は西郷自身の筆になる毫を表装したものである。

 そして、それはまた西郷自身の生涯で、ついに見果てぬ夢となった世界であった。

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