わたしの出エジプト記は1996年2月から7月までの半年間、JICAからエジプトに派遣されて滞在していた時の滞在記を本にしたものです。同年、大分合同新聞に連載されていたものを中心にまとめました。全部で42話です。本をご希望の方には分価1,500円でお分けしています。

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第三話

エル・アラメイン

 わたしの任地アレキサンドリアを起点にして、西の隣国リビアに向かって延びる立派な国際道路があります。この道路の沿線は第二次大戦の戦場だったところです。特にアレキサンドリアから約百キロのところにあるエル・アラメインは北アフリカ戦線の命運を分けた激戦地でした。「砂漠の狐」として有名なロンメル将軍が活躍した舞台です。一帯には数十年たった今でも、大戦当時の地雷が未処理のまま埋まっていて、そのことを示す立入禁止の立て札が無気味に立っています。

 エル・アラメインの中心には戦争博物館があり、両軍の車両、武器、軍服とともに、ロンメル将軍の当時のスナップ写真などが展示されています。中央の照明装置付の大きな作戦地図では、音響効果入りで戦争当時の様子が分かり易く再現されています。

 エル・アラメインは大勢の人の命が失われた地でもあります。一帯には各国の戦没者慰霊碑が建てられています。戦争博物館を挟んで、独・伊の枢軸国は海側に、エジプトを含む連合国側は陸側に別れて慰霊碑や墓地が並んでいます。

 驚かされるのは独伊両国の慰霊塔の立派さです。ドイツもイタリアも第二次大戦の敗戦国だったと云うだけでなく、エジプトにとっては迷惑千万な侵略国だったはずです。

 ドイツのそれは遠目には古代遺跡と見紛うばかりに壮大で堅牢な造りです。まさにドイツ人の気風そのものを見る思いです。

 イタリアの方は白い大理石で造られた美しいもので、まるで戦勝国が戦勝記念碑を造ったのではと思わせるほど華麗です。その上、戦没者の名前を刻んだ碑の前には常にイタリア本国からの慰霊団によって花が飾られ、絶えることがありません。

 イギリスを初めとする連合国側の慰霊碑ももちろんあります。しかし、それらと比べても独伊の慰霊碑の立派さ荘厳さは際立っています。慰霊碑が建っているこのエジプトにとって、独伊両国は不倶戴天の侵略国だったにもかかわらずです。

 独伊の慰霊碑を前にして、わたしはアジア各国にある日本の戦没者のための慰霊碑を思い浮かべていました。それらの国の日本の慰霊碑はまるで打ち捨てられたものの様にみすぼらしかったり、打ち壊されたり、他の施設に改変されていたりしています。未だに遺骨の収集も済まず、野ざらしのままになっているところさえあります。

 どんな理由をつけようと、他人の家に勝手に侵入して、あまつさえその家の住人を拉致し、婦女を辱しめ、物品を強奪することが許されることではありません。我々は何よりもまず人間として、我々の先祖が犯した罪を憎み、それによって多くの隣人たちが受けた苦しみを反省しなければならないでしょう。そしてそのことを未来永劫語り継がなくてはなりません。

 しかし一方で戦争を引き起こした人々も亡くなった人々も、我々の父であり、祖父であり先祖なのです。我々は彼らの血を受け継ぐ唯一の血縁者です。壮絶悲惨な戦いを戦い抜いて果てた人、BC級戦争犯罪人として異国の空の下で裁かれ死刑となった人、軍属や政策植民として異国の地に果てた人のことを忘れていいはずはありません。日本に誤った道を歩ませ、日本人に不毛の侵略戦争を強いた当時の指導者たちさえも、我々の先祖であることにはまちがいないのです。歴史上の評価や反省はもちろん必要ですが、ひたすらに先祖の冥福を祈ることもまた、我々が人間としてやらなくてはならない事ではないでしょうか。

 もちろん慰霊碑の大小が冥福を祈る気持ちの深浅を表わすわけではないでしょう。それでも独伊の立派な慰霊碑と絶えない献花、それを可能にしているエジプト人の寛容さを考えるにつけ、わたしはひとりの日本人として、なんとなく恥ずかしい思いを禁じえませんでした。

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