密談
二、
西郷が用件を切り出した。用件は果たして大久保の覚悟していたことだった。大久保は目を逸らすことも、言葉を濁すこともしなかった。この男の前で、そのようなことは出来ようはずもなかった。畳に手をつき一言、
「そいは友山入道のご意向でごわす」
と云った。
西郷にはその意味するところが直ぐには理解できないらしい。まさか目の前の大久保自身がこの件に深く関わっているとは、西郷は思ってもいなかったのだ。
それはほんの一瞬であったろう。しかし大久保にとっては長い長い時間が過ぎていった。大久保は息を止めていた。心が萎えてしまわないよう必死だった。十分に心の準備をして西郷の前に現れたつもりだったが、それでも自然に視線が畳に落ちていた。
西郷の眼は深く清澄な湖の水面のように、見つめられる者の心の情景をそのままに映す。しかし時として金剛力士の眼のように激することも、大久保は骨身に染みて知っている。
「何故(ないごて)な。何故(ないごて)ッ」
西郷が噴火した。しかしすぐに自分の声の大きさを自覚したらしい。次の一瞬、西郷の背中から立ちのぼりかけた炎が消えた。
「半次郎どん、半次郎どん」
西郷は殊更に声を低くして中村を呼んだ。大久保は西郷の心を測りかねて、思わず腰を浮かせる。西郷は右手を二度上下に振った。大久保は坐り直すしかない。
足音もなく中村が広縁に手をついた。六尺近い大男の中村がまるで猫のように足音を消して歩く。西郷の急な呼びかけに先ほど大久保の顔に見た予感を呼び起こされたらしく、中村は青ざめた顔をしている。
「先生、御用ごわすか」
大久保の背中は中村の声とともに、殺気にも似た緊張感を浴びせかけられていた。この男は緊張するだけで殺気を発するようになるのだ。
「ちっくと遣いを頼まれてくやい」
わざとのんびりとした声でそういいながら、西郷は後ろを向く。小机の上の硯に古伊万里の小さな水滴から水をたらし、墨を擦り始めた。
「夜分にご苦労ごわすが、伏見の藩邸にこん手紙を届けてくやい。青年(にせ)どんたちが首をなごうして待っちょることじゃろう」
「俺(おい)どんたちは明日伏見に入りもす。明後日には大阪を立ちたか。そいを知らせてやっちくやい。半次郎どんは足が速かけん、急ぎの使者はおはんが一番よか」
中村の身体に籠もっていた「気」が消えた。西郷の言葉を素直に受け取って、うれしそうな顔をしている。
‥‥先生の下京を知らせる役に遣わしてくれる。俺(おい)が先生の先触れじゃあ。鹿児島に帰れば人とも扱ってもらえん身分んこん俺(おい)ば、先生はこげな晴れがましい役に使うてくれる‥‥
中村は飛び跳ねたい気持ちを押えるのに苦労していた。そのうれしさが大久保の緊張の面持ちも、西郷の最前の緊迫した声も忘れさせていた。
大久保は端座したまま、まっすぐに西郷の背中を見つめている。話の途中で急に中村に手紙を持たせることにした西郷の真意を、何となく理解していた。
中村は奉書紙と渋紙を取りに下がった。
しばらくして西郷が手紙を書き上げ、それを巻きながらこちらへ向き直る。大久保が中村から奉書紙を受け取って西郷に渡した。西郷はそれで手紙を丁寧に包みながら、
「誰かに雨戸を閉めるように伝えていってたもんせ。さすがに都(みやこ)は鹿児島とは違いもすなあ。冷えてきもした。半次郎どんも足袋を履いて行きやんせ」
と云った
中村は直ぐに立ち上がり、自分で雨戸を閉め始めた。その音を聞きつけてすぐに庭先に小者たちが現われた。
「俺(おい)が閉めるけん、よかよか」
中村は小者たちを追い返している。小者たちは不決断な素振りをしたが、西郷が笑いながら頷くのを見て下がっていった。
西郷が手紙を包みおわり大久保に渡す。大久保の手から手紙を受け取った中村は、一度戴いてから自分の膝前に置き、居ずまいを正した。そして手紙を渋紙で包み始めた。
「朝餉(あさげ)までには帰って参りもす」
「いや、そいではおはんに悪か。伏見で待っちょってくやい。俺(おい)も今夜こんままこっちに泊まって、明日の午(うま)ん刻までには出立しもす。戻ることはなか。伏見で会いもそう」
中村の眼が子供のように輝いた。
「俺(おい)の足は芋づくりで鍛えちょりもす。お気遣いはかたじけなかごわすが、戻って参りもす。大久保様(さあ)、どうぞ先生を宜しく。では先生、行って参りもす」
最後は返事も待たずに駆け出していった。大男に似合わない敏捷な立ち回りで、足音はこの時もやはり猫のように、ほとんど残していかなかった。
大久保が振り向くと西郷の顔に苦笑いが浮かんでいた。大久保はその苦笑いを見て、自分が西郷の真意を正確に理解していたと確信した。
「薩摩犬んようじゃ」
小者たちの言葉が思い出された。大久保の背中にまた冷たいものがにじんだ。
「話ん腰を折ってすまんじゃったぁ。俺(おい)どんが大きな声を出したちゅうと、半次郎どんがまた心配しもっそう。何を思いつくか分かりもはんのでなあ」
西郷は真顔に戻ってそう云った。確かに大久保の読みは的を得ていた。
西郷は先月始めの赤松小三郎の事件を云っているのだ。大久保はそれが杞憂ではないことを知ってる。赤松小三郎は先月初めに中村に襲撃され殺された。そして西郷がその事件の遠因が大久保自身にあると考えていることを大久保は自覚している。西郷が皮肉や面当てを云うような男ではないことはよく承知しているが、それでも西郷の言葉には、大久保にとって苦いものが含くまれていた。
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