童話



 
風とキリギリス

井手口良一

 

 まだまだ暑い日が続く八月のある日、キリギリスはいつものようにススキの若葉の藪の中で
「チョン、ギ−ス。チョン、ギ−ス」
と鳴いていました。
 その日、キリギリスの住んでいる草原で、風が生まれました。
生まれたばかりの風はうれしくてうれしくてしようがありません。
「サワサワ、サワサワ」
と、軽やかな秋風らしい笑い声を上げながら、ススキの藪をかきわけて踊りました。
 キリギリスは一生懸命です。早くお嫁さんを見つけないと、そして結婚して卵をたくさん生んでもらわないと、来年はここの藪にはキリギリスの声が聞こえないということになってしまいます。キリギリスは秋の次にやってくる冬を越すことはできません。ただでさえ一生懸命なのに、きょうは秋風の声が聞こえてきます。キリギリスは秋がそこまで来たことを知り、ますます一生懸命に鳴いています。何にもしらない生まれたばかりの風は、大きくて元気一杯のお日様の光を浴びながら、楽しそうに、うれしそうに踊っていました。
「チョン、ギ−ス。チョン、ギ−ス」
「サワサワ。サワサワ」

「チョン、ギ−ス。チョン、ギ−ス」
「サワサワ。サワサワ」
 ススキの藪はお嫁さんを誘うキリギリスの鳴き声と、生まれたばかりの風の軽やかな笑い声に満ちていきました。

 やがて生まれたばかりの風が、キリギリスの声に気がつきました。生まれたばかりの風は、キリギリスの姿を見つけることはできませんでしたが、そんなことは問題ではありません。
第一自分の姿だって誰にも見えないのですから。

「あなたは誰。素敵な歌をお唄いね」
「素敵だなんて。秋風さん。僕はキリギリスです。ただ一生懸命、お嫁さんを探して唄っているだけなんですよ」
キリギリスは恥ずかしそうに答えました。
「わたし、もう行かなくちゃ。これから遠くまで旅をして、いろんなところを見てくるの。わたしあなたのお嫁さんが早く見つかるように祈っています。今度お会いできる時まで、お元気でいてくださいね」
 生まれたばかりの風には、まだまだキリギリスの気持ちまではわかりませんでした。でもキリギリスは知っていたのです。生まれたばかりの風に、キリギリスはもう二度と会うことはできないことを。
 それでもキリギリスは

「そうですね。いってらっしゃい。いつか、あなたが帰って来るのを僕はここで待っていますよ。今度はお嫁さんと、もしかしたらたくさんの子供たちも一緒にね」
 キリギリスはそう答えながら、見えない相手に微笑みかけました。そしてまた
「チョン、ギ−ス。チョン、ギ−ス」
と唄い始めました。
 生まれたばかりの風は、できたばかりのお友達に
「サヨナラ、キリギリスさん」
と声をかけると
「サワサワ、サワサワ」
と踊りながら、ススキをかきわけて旅立っていきました。

 ‥‥‥‥それからどのくらいの日がたったのでしょう。あの時の風がキリギリスの草原に戻ってきました。でももう生まれたばかりの頃の秋風ではありません。
「ヒュール−ル、ヒュール−ル」
と冷たく、悲しげな声で唄います。小さくて弱々しくなったお日様の光の中で、今ではもう枯れてしまったススキの真っ白な綿毛の実を吹き飛ばしながら、誰もいない草原で誰かを探しているように、あちらこちらと走りまわっていました。
 風は木枯らしに成長していました。ところが冬になって友達がみんないなくなってしまったのです。それで生まれたばかりの時に約束したキリギリスのところへ帰ってきたのです。
「ヒュール−ル。キリギリスさん、どこに行ってしまったの。わたしとのお約束を忘れてしまったのね。ヒュール−ル」
絞るような悲しげな声を上げながら、木枯らしはキリギリスを探して、草原中を走りまわっていました。

 そのうち雪が降りはじめ、草原は見る見る真っ白に変わっていきます。木枯らしはそれでもあきらめません。雪を吹き飛ばしてはキリギリスを探してまわります。でもよく考えてみると木枯らしはキリギリスの姿を見ていません。探している相手の姿を知らないのです。木枯らしは心細くなるばかりです。
「ヒュール−ル。キリギリスさん、意地悪しないで唄ってください。わたし、お土産話をたくさんもって帰ったきたのよ。ヒュール−ル」
と木枯らしはとうとう、枯れたススキの藪の根元にうずくまって泣き始めました。

 その時です。微かな声が聞こえてきました。
「風さん。もう少しですよ。もう少しで会えますよ」
木枯らしはびっくりして耳を澄ましました。
「誰。誰かしら。誰でもいいからわたしの話し相手になって」
「僕はキリギリスだよ」
今度はさっきより、はっきりと聞こえます。
「キリギリスさんなの。どこにいるの。ずいぶん小さな声だけど病気なの」
 木枯らしは心配そうに聞きました。
「いいえ。僕はまだ寒いから土の下の卵の中にいるんですよ。お父さんからあなたの話を聞いていました。あんまり悲しそうな声で泣くんで、一生懸命大きな声を出してみたのです。でももうこれ以上はむり。少し暖かくなったら会えますから、それまで待っててくださいね」
 木枯らしはその時になって、初めて思い当たりました。自分が木枯らしになって吹けば吹くほど、友達は少なくなっていたのです。暖かくなれば、きっとまた懐かしい友達に会えるかもしれないことに。

 木枯らしはそれから、走りまわるのも踊るのもやめて、ススキの藪の根元でじっとしていました。するとまず、お日様がだんだんと元気を取り戻して来ました。
 そしてある日、気がつくと冷たく凍えていた藪の根元の黒土に、小さな緑の頭が見えてきました。
 フキノトウでした。フキノトウは寒そうにかじかんだ体で、少しずつ土の外に出てきたのです。
 風は喜びました。そして一生懸命フキノトウを暖めてあげようとしました。
「あなたがキリギリスさんなのね」
「いいえ春風さん。わたしはフキノトウです。暖めてくれてありがとう。おかげでほら、かじかんだ体が暖まって、花を咲かせることができます」
 風はフキノトウを暖めるのに一生懸命になっているうちに、いつのまにか春風になっていたのです。
「フキノトウさん、こんにちわ。かわいい顔をしてるのね。お会いできてうれしいわ。あなたキリギリスさんを知っているの」
「知っていますとも。でもキリギリスさんはまだまだ土の中ですよ。もう少し暖かくならないと生まれてきません」
「わたし、生まれてすぐにキリギリスさんの声を聞いたの。お話もしたのよ」
「ああ、あの時の秋風があなただったのですか。あなたの会ったキリギリスはもう死んでしまって、ここにはいませんよ。でもあなたが旅に出てからすぐに、キリギリスはお嫁さんをもらいました。ここのススキの根の下にはキリギリスの子供たちがたくさん眠っています。もうすぐ生まれてきて、にぎやかになりますよ」

 フキノトウは春風の知らないことをたくさん教えてくれました。フキノトウは毎年冬の間は土の中で寝ているけれど、いつもは大きな笠のような耳を広げて、みんなの話を聞いています。それでなんでも知っているのです。
 春風はうれしくてしようがありません。お日様の光をたっぷりと身に付けて、暖かく暖かくなりました。

 また何日かたって、春風が待ちに待った日が来ました。キリギリスの子供たちが生まれたのです。次から次に土から出てくる小さなキリギリスたちに、春風はそっと暖かい息を吹きかけてやりました。
「こんにちは。皆さん。やっとお会いできましたね」
「こんにちわ。春風さん。暖めてくれてありがとう。これから僕ら、一生懸命大きくなって、あなたに唄を聞いてもらいます。どうかそれまで楽しみにしていてくださいね」
 春風も今では知っています。キリギリスの子供たちはこれから夏に向かって、どんどん大きくなっていきます。そしてまた新しい風が秋風として生まれる頃には、キリギリスの声が聞けるようになっていることを。
 風はこれから忙しくなります。どんどん大きく強くなるお日様の力を借りて、木々の芽ぶきや、たんぼの稲の成長のお手伝いをするのです。そして誰にでも好かれて、お友達の多いおとなの風になるのです。
 風は、また旅に出なければなりません。でも今はすこしも寂しくありませんでした。すぐにまた、今年のキリギリスの声が聞けるのです。その日を楽しみに、風は緑になった草原の、ススキの若葉をかきわけながら
「サワサワ。サワサワ」
と旅だっていきました。