童話



 

じいちゃんとタンの話

 別府の町に春が来ました。内山の頂の雪が消えた、ちょうどその日に、タンは二匹の兄弟といっしょに生まれました。

 おおぎ山と内山の間の、深い谷は別府の町からは見えません。町からすぐ近くにあるというのに、その谷は昼でも暗い森が一面に広がっていました。

 春が来たと云っても森はまだ寒いし、餌になるものも簡単には見つかりません。生まれたばかりの三匹の子供に乳をやる、タンのお母さんは痩せるばかりです。森にはイタチもいますし、空からはオオタカも子供たちを狙っています。時にはキツネまでが内山の峰を越えて、エモノを捜しにやってくるのです。

 お母さんはエサを捜しに出かけても、子供たちから目を離すことは出来ません。巣から離れたところまでは、エサを探しにいけないので木の芽をかじったり、笹の根を掘ったりしながら、ひもじいのを我慢していました。

 子供たちは乳だけでは物足りないらしく、何を見つけてもすぐにくわえたり、噛ったりして遊んでいます。それはもう、石ころでも木の枝でも、何でも噛るのです。でもお母さんは黙って見ているだけでした。子供たちは、そうやって食べられるものと、そうでないものとを覚えていくのです。丈夫な鋭い歯も生えてくるのです。

 おおぎ山の頂を越えて、草の燃える匂いと黒い灰がたくさん降ってきました。きっと今年もおおぎ山のおもて側では野焼きが行なわれたのでしょう。

タンのお母さんは、
「さあ、もうすぐ引っ越しだよ」
うれしそうに子供たちに話しました。

 おおぎ山と内山をつなぐ尾根のシャクナゲが、きれいな花をたくさん付けました。いよいよタンの一家の引っ越しです。山を下りて、餌のたくさんある麓のほうに行くのです。三匹の兄弟はお母さんの後ろにピッタリくっついて、おっかなびっくり歩いて行きます。

 森の出口には古いお社があり、そこを抜けると広い草原です。そこは昔キャンプ場になっていたそうです。その頃使っていたという露天風呂の跡を過ぎると、同じ形をした四角い石がたくさん並んでいます。石の前には、きれいな花が飾ってあります。おいしそうなお菓子も置かれていました。

でもお母さんは

「カラスに見つかるとうるさいからダメだよ。あそこのお菓子はカラスの縄張りだからね」
と云いました。

 そこから藪を登ると広い道路です。何かものすごく大きな生き物が、見たこともないような速さで、引っ切りなしに走っていきます。
「あれは自動車と云って、人間が乗っているんだよ。恐いから気を付けるんだよ」

お母さんは高速道路を渡るの諦めました。今度は川伝いに進もうと思ったのですが、川岸はコンクリ−トの高い壁になっていて、ここも子供たちには下りることが出来ません。

 おおぎ山の裾野は、昔は石垣原と呼ばれる岩だらけの雑木林でした。今ではたくさんの人間が住むようになり、高速道路や観光道路も出来ました。昔は広がっていた雑木林も、ほんの少しになってしまったのです。

 タンの一家は高速道路の土手を歩いたり、広い公園を抜けたりして、ようやく二つ目の広い道路に出てきました。そこも自動車がたくさん走っていました。面白いことに自動車は時々、白い縞模様のあるところで、いっせいに止まります。

 お母さんはしばらく迷っていたのですが、やがて決心したように
「さあ、ここから渡るよ。お母さんから離れたらダメだよ」
そう云って道路に飛び出しました。子供たちも慌ててあとから、飛び出したのです。

 ‥‥その日からタンは一人きりになりました。赤信号で停車中の車の列を、信号無視の車が走ってきて一家をはねてしまったのです。少し遅れて飛び出した、タンだけが無事でした。

 タンには何が起こったのか、すぐには理解できませんでした。道路のあっちこっちに、お母さんと兄弟たちが倒れています。お母さんはしばらくは動いていました。やがて静かになり、三匹とも死んでしまったようです。

 道路の両側に植えてあるツツジの樹の下まで逃げ込んでから、タンはお母さんの姿を見つめていました。タンにはどうすることも出来ません。恐くて眠ることも出来ない一夜が明けても、タンは同じところにじっとしているだけでした。朝が来てカラスがやってきました。お母さんを見つけて大騒ぎしています。やがて清掃局と書いてある大きな車がやってきて、お母さんも兄弟たちも、連れていってしまいました。
 次の日も、その次の日もタンはそこにいました。森に帰ることも、道路を渡って向こうの雑木林に行くことも出来ないのです。あの日からずっと、なんにも食べていません。お腹が減って気が遠くなりそうでした。

 ‥‥「おや、タヌキの子じゃないか。どうした。迷子になったか」
いつもは恐い恐い人間の声が、すぐそばでしたときも、タンには顔を上げることも、逃げることも出来ませんでした。

「腹が減っているんだな。もう大丈夫だよ。じいちゃんが連れて帰ってやろう」

 始めはミルクに浸したパンをもらいました。
「少しずつだぞ。ゆっくり食えよ」

じいちゃんはいつでもタンに話しかけながら、介抱してくれます。

「だいぶん元気になったな。よし名前を付けてやろう。そうだ、タンがいいな」

 この日からタンという名前になったのです。
「今日は風呂に入れてやろう。タンは臭くて臭くてしょうがないからな」

「何だタン。お前、内山のタヌキのくせに、風呂が恐いのか。じいちゃんの子供の頃は、あの谷のお湯の湧くところで、タヌキも風呂に入っていたもんだがな」

 じいちゃんは一人で住んでいました。タンを人間の子供のようにかわいがってくれます。
「タン。回転焼きを買ってきてやったぞ」

「タン。タコ焼きを食うか」
「タン。昼飯にしようか」

時々はタンが散歩に出かけて帰りが遅くなると、じいちゃんが捜しに来ます。

「犬が来るぞ。恐いぞ。自動車も恐いぞ」
などと云いながら連れて帰ってくれるのです。
「じいちゃんの子供たちは遠くに住んでてなあ。孫たちも滅多に来てはくれん」

「タンが来てくれて、じいちゃん、話相手ができた。ありがとうよ」

「おじいちゃん。最近はいつもうれしそうですね。何かいいこと、ありましたか」
「おや、変わった犬ですね」
近所の人もじいちゃんに話しかけています。

 タンには何を話しているのか、分かりません。だけどじいちゃんが優しい人で、近所の人も恐くないということだけは分かりました。
 夏になる頃には、タンも近所ですっかり有名になりました。タンも今では大人のタヌキと同じ大きさです。でもタヌキの臆病な性格は直りません。じいちゃんの家にはテレビや柱時計や玄関のブザ−があって、タンを驚かせます。いつまでたっても、音がするたびに、飛び上がるほど、びっくりしてしまいます。

 じいちゃんの家の後ろには、クズの茂る広い空き地がありました。恐い音がいっぱいのじいちゃんの家を出て、タンはクズの下で寝る日が多くなりました。だけど、じいちゃんの呼ぶ声がすると、すぐに出ていけるように、家のすぐ近くをねぐらにしていました。じいちゃんの家の勝手口には、タンのために小さな出入り口も造ってありました。

 クズの花が咲き、大きなマメのなる頃でした。じいちゃんの家で「ズシン」と大きな音がしました。タンはクズの下から出て、様子を見に行きました。
 じいちゃんは台所にいました。茶碗が割れて、散らばっていて、倒れた椅子のそばでじいちゃんは寝ていました。
 「グウグウ」といびきもかいていました。いつもと様子が違います。タンが顔を舐めても起きてくれません。

 動物には不思議な勘があります。タンもすぐにじいちゃんの異変に気が付きました。でもどうしていいのか分かりません。

 タンは隣の家に行きました。隣の家の人たちも、いつもタンを見かけると餌をくれたり、呼びかけてくれたりするので、タンはその家の人に助けを求めることにしたのです。

 タンはその家の壁に体当たりを始めました。壁は固く、タンは頭からぶつかるので、鼻血が出てきました。それでもタンはぶつかることを止めません。頭がくらくらしてきましたが、それでもぶつかることを止めません。気が遠くなって、壁にぶつかる力も無くなりそうな時、ようやく誰かが出てきてくれました。
 タンはこんどはじいちゃんの家の勝手口にぶつかります。隣の人はやっと、何かが起きたらしいと気が付いてくれたようです。

「あっ、おじいちゃん。おじいちゃん。どうしました。これはいけない。救急車だ。誰か救急車を呼んでくれ」

タンの嫌いな自動車が、奇妙な大きな音を立ててやってきました。車が行ってしまったあとには、じいちゃんはいませんでした。

 それから何日かたちました。隣の人が知らない男の人を連れてきました。でもどこかじいちゃんに似ている人でした。

「そうか。お前がタンか。ありがとうよ。おかげでじいちゃんは助かったよ」
その人は涙を流しながら、お礼を云います。

「鼻血が出ても、知らせるのを止めなかったんだってな。じいちゃん、ほんの少し体が不自由になるけど、もうすぐ帰ってこれるぞ」
「今度は、俺たちもここでじいちゃんと暮らすからな。よろしく頼むな」

タンには何を云っているのか分かりませんでしたが、何かとってもうれしくなりました。
でも自慢そうに大きな背伸びを一つしてみただけでした。